原田君事と映画『八甲田山』 (12)

映画『八甲田山』の完成記念の打ち上げパ-ティが森谷司郎監督、脚本の橋本忍先生、主演の高倉健さん、北大路欣也さんなどの豪華俳優人が出席して六本木の某レストランで開かれ、私も末席に加えていただきました。

司会は東野英心さんで、森谷監督や橋本先生を始め、名だたる出演者の方々にマイクを向けてスピ-チをお願いしたんですが、英心さんはパ-ティを盛り上げるために端役の私にまで「原田さん、一言お願いします」とマイクを向けてきたんで、えらく恐縮してしまいました。

パ-ティに参加された皆さんに、ふんどし男が狂い死ぬシ-ンを褒めていただいてとても嬉しかったです。

特に橋本先生には「僕の書いた場面が、君の必死の演技のおかげで何倍にも魅力的になった」と言っていただき、後日、先生が映人社から出版された「映画『八甲田山』の世界」という署名本を頂戴しました。

25歳で芸能界に入ってから18年間。

数多くの作品に出演させてもらいましたが、マスコミに取り上げられたのは後にも先にもこれが初めてで、役者・原田君事の存在を認めていただきました。

劇場で発売された『八甲田山』の映画パンフレットにも私の出演シ-ンが紹介されています。

演技というよりは、苛酷な寒さの体験ドキュメントに近いんですが、

これだけ注目されたことは他にはありません。

役者というのは存在感をどうアピ-ルするかが勝負で、売れていない役者は必死なんです。

主演の高倉健さんクラスは、黙ってても周囲から「アップいただきます」と言われて、いくらでも目立つんですが、

私のように売れていない役者は

命まで張らないとなかなか映してもらえません。

少ないギャラではありましたが、先払いで貰った金額とは別に、後日、

ボ-ナスのようなものも貰えたんで、最初に比べて倍にはなりました。

公開から30年以上経った2008年11月に、SMAPの香取信吾さんが司会しているテレビ朝日の人気番組『スマ・ステ-ション』の「昭和を代表する名監督 撮影武勇伝ベスト5」という企画で、撮影が大変だった映画の第2位として映画『八甲田山』が紹介され、森谷司郎監督がこだわった場面がふたつ紹介されました。

雄大岩木山を背景にして、真っ白な雪原を歩く弘前三十一連隊の撮影で、新雪に余計な足跡をつけないように立ったままの姿勢で、天候が回復して岩木山が見えるのを待ち続けた苛酷な5日間。

そして「あまりの寒さに錯乱した兵士が服をぬぎ棄てて死んでしまうシ-ンで、兵士役を演じた原田君事さんは、寒さで心臓が縮んでいくような感覚を覚えたそう」という小林克也さんのナレ-ションんで私の出演した場面も放送されました。

ちなみに第1位は黒澤明監督の映画『蜘蛛巣城』で、城主の鷲津武時を演じる三船敏郎さんが本物の矢を何本も射かけられるラストが紹介されていました。

人気者の香取信吾さんの番組で紹介されたことで、公開当時に生まれていなかった若い世代の映画ファンも映画『八甲田山』に興味を持ってくれたんではないかと思います。

ひとりでも多くの方に映画『八甲田山』を観てもらい、死ぬ気で撮影した私のシ-ンも含めて楽しんでもらえればありがたいです。

 

私の親父は、映画『八甲田山』の青森ロケが始まる半年前、松竹映画『ひとごろし』の撮影中だった昭和51年7月22日午前9時15分に68歳で亡くなりました。

そのため、親父は、マスコミに取り上げられた私の記事のことも知りませんし、完成した映画『八甲田山』を観てもらうこともできませんでした。

それに親父が亡くなったのは長男が生まれる3ヶ月前で、孫の顔を見せてあげられなかったことが一番の心残りです。

親父の生まれ代わりと思って、長男の名前を親父の名前と同じ「治」にしました。

もう少し長生きしてくれていたら、映画『八甲田山』についてどんな感想が聞けたのか、とても気になります。

褒めてくれたか、それとも、やはり「役者としてはまだまだ」と言われたか」。

想像するしかありませんが、親父のことを考えると残念でなりません。

    

                             

原田君事と映画『八甲田山』 (11)

シ-ン59 青森五連隊―営庭   (橋本忍先生の脚本より)

明治三十五年一月二十三日、午前六時五十五分。

白い雪に覆われた早朝の営庭に雪中行軍隊二百十名。

いや、すでに神田を先頭に、第一小隊の伊藤小隊、

第二小隊の中橋小隊が動き出している。

将校は黒の羅紗服に黒の外套、

下士官は紺の羅紗服にカ-キ色の羅紗外套、

兵卒は紺の木綿の小倉服だが、下士官と同じカ-キ色の羅紗外套で、

全員が軍靴の上に雪沓。

中略

最後尾は行李輸送隊の八台の橇で、一台には四人の輸送隊員。

中略

神田を先頭に、伊藤小隊が営門を出て行く。

   Ⅹ     Ⅹ

行進曲の喇叭はまで高らかに続いている。

行軍隊の三分の二はすでに営門の外で、続く隊列と最後尾の行李輸送隊が力強く出発して行く。

新潟県自衛隊新発田駐屯地でのその日の撮影が終了して月岡温泉の旅館へ帰ると、新聞の切抜きを貰いました。

誰からだったかは忘れましたが、見ると全国紙の毎日新聞の夕刊で、

撮影中の映画『八甲田山』の紹介記事があって私の写真入りだったんでびっくりしました。

2月12日 毎日新聞夕刊 土曜レポ-トコ-ナ-

【腰まで埋まる雪の中、錯乱のすえフンドシ一つで凍死。

文字どおり死を覚悟しての演技だった】

青森第五連隊の役者仲間に見せて、興奮しながら喜んだのを覚えています。

その後、撮影が終了して東京に帰ってからも新聞や雑誌の記事を見つけては手元に保管しておきました。

映画公開の6月までの間に、他にもいろんなマスコミ媒体で紹介されたようです。

 3月6日 公明新聞

【俳優残酷物語の決定版!! 

凍死寸前、裸で雪の中を駆け回る兵隊役の原田君事】

3月17日 東京スポ-ツ新聞

【零下十五度の中を裸で・・・中略 原田クンは生きながらにしてこの世の地獄を見てしまったわけだ。ゴシュウショウサマ。苦あれば楽あり―

きっと、いや絶対この映画ヒット間違いなし、とは周囲の話】

この頃、新橋のスナック「なでしこ」の常連客だった石倉三郎さんから新聞記事を見たと電話をもらいました。

「君ちゃん、ついにやったな!おめでとう。俺も負けずに頑張るからよ」「おう、お互いに頑張ろうぜ」と私も言いました。

彼は、その後、映画やテレビにマルチな才能を発揮して活躍している根性の男です。

私は完成した映画『八甲田山』を東洋現像所(現在のイマジカ)の試写室で観たんですが、撮影で一番多く時間を費やした雪中行軍のシ-ンでは、顔が映っていると思われるほとんどのカットが露出不足により顔が真っ黒で、判別不能なのが残念でした。

それと、唯一私のセリフがあったシ-ン80の大隊本部の雪濠で飯を炊く場面が丸々無かったのがショックでした。

ふんどし男が狂い死ぬシ-ンは、私の想像以上に印象的に編集されていたんで驚きました。

特に森谷監督がこだわっていた、狂った眼をした表情で、雪溜まりから顔を出す私のカットがストップモ-ションになっていたんで、多くの観客の脳裏に深く刻まれたんだと思います。

もし、このシ-ンの撮影を森谷監督に売り込んでいなかったら、毎度お馴染みの、どこに映っているのかも判らない私の他の出演作と同様になっていた事でしょう。

☆追記☆

映画『八甲田山』が公開されてから40年以上経った2018年9月4日に、100歳で亡くなられた橋本忍先生を追悼し、4Kデジタルリマスタ-版の特別上映会に参加してきました。

TOHOシネマズ日比谷の大画面で久しぶりに観た映画『八甲田山』は、撮影監督の木村大作氏や東京現像所(TOGEN)スタッフの尽力により見事に蘇っていて、嘘のように見やすく露出補正がされていました。

青森第五連隊雪中行軍隊の炊事係として、橇隊を先導して歩いていた自分自身の勇姿を大画面に発見したときには、嬉しさのあまり思わず画面を指さしてしまった程です。

腰まで雪に埋まりながら必死にラッセルした雪中行軍の撮影の苦労が、

40年かけてようやく報われた気がします。

ふんどし男が狂い死ぬシ-ンも当時体験した命を賭けた苛酷な撮影を懐かしく思い出しました。

あんな撮影は、今では到底できないことでしょう!

若い頃のエネルギ-は偉大ですね。

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原田君事と映画『八甲田山』 (10)

1ヵ月に及んだ青森ロケが終了し、次の撮影は1ヵ月後の新潟ロケです。

新潟へ出発するまでの間、久しぶりに東京へ戻って家族と再会しました。

女房殿に青森でのロケ撮影の話しをしたところ、ロケ先から私が死を覚悟して電話したことがやはり気になっていたようで「ギャラを前金で貰っておきながら家に生活費も入れず、酔っ払ってあんな電話をしてきたのかと思ったら、本当に死ぬかもしれない状況だったなんて、子供も生まれたのに無責任過ぎる」と叱られました。

翌日、新宿で丹波プロの小林マネ-ジャ-に会って、酒を飲みながら映画『八甲田山』の青森ロケの報告をしました。

「八甲田はどうだった」と小林さんが訊くので「いやぁ、とにかく寒くって大変でしたよ」と、八甲田山中のロケ現場の大雪のことから始めて、ふんどし一丁の裸になって狂い死ぬ隊員を演ったときの話をしました。

私としては寒さに耐えて頑張ったわずかな出演カットにどれほどの価値があるとか、映画に対して何か貢献した、などとは全く思っていませんでしたが、小林さんには私の話に感じることがあったみたいで「原田君、君は凄いことをやったんだよ」と言ってくれました。

そして翌日、東宝の宣伝部へ行って映画『八甲田山』の青森ロケでの「ふんどし」のことを大きく扱ってもらえるよう売り込んだそうです。

現場からは、その情報はまだ入っていなくて小林さんのおかげで東宝宣伝部からマスコミに映画『八甲田山』制作進行中のニュ-スとして「ふんどし」のことが流されたんでしょう。 

 

未撮で残っていた台本のシ-ン59を撮影するため、青森歩兵第五連隊の若手の役者連中と一緒に新潟県新発田へ行き、宿泊先の月岡温泉の旅館に入りました。

自衛隊新発田駐屯地を青森第五連隊本部に見立てて、青森第五連隊雪中行軍隊の出発シ-ンを撮影するためです。 

 夜、私が月岡温泉の旅館の風呂へ行って湯船に浸かっていると、タオルで鉢巻をしてシェ-ビングクリ-ムをアゴ一杯につけた男が入って来ました。

そのとき風呂の中は二人だけで、私は大して気にすることもなくのんびり過していたんですが、何気なく男の横顔を見ると鼻筋の通ったいい男で、身長があって鍛えあげた身体をしているんです。

「こんな奴が役者になればきっと売れるのに」と漠然と思っていました。

やがて風呂に入ってきた青森第五連隊の役者たちが、その男に頭を下げて挨拶しています。

「あれっ、八甲田の関係者だったのか?」と思いながら、よく顔を覗いてみるとその男は高倉健さんでした。

このとき月岡温泉には青森第五連隊の連中と撮影スタッフしか泊まっていないと思っていたんで、まさか弘前歩兵第三十一連隊の徳島大尉役の高倉健さんが風呂に入ってくるとは夢にも思いませんでした。

もしかしたら同じ自衛隊新発田駐屯地を使用して、我々の出発シ-ンとは別に弘前三十一連隊のどこかのシ-ンを撮影していたのかもしれません。

「やっぱり高倉健っていう人は、風呂へ入っていても画になる男で、カッコいいんだなぁ」と感心しました。

同じ湯船に浸かってても気づかなかった私ですが、高倉健さんと一緒に風呂に入ったという話は、後年、私の自慢話になりました。

原田君事と映画『八甲田山』 (9)

さあ、2カット目です。

毛布のまま雪上車を降りて、撮影現場で助監督さんに毛布を手渡すと巨大扇風機に直撃されて、いきなり体感温度は零下30度にも感じます。もう寒いというようなレベルではありません。

一瞬にして肌は赤黒くなり、ヒリヒリと痛いのです。

凍死した隊員役として私の周囲の雪の中で横になっている奴らも大変ですが、今の私にはそんなことを気にしている余裕などありません。

 森谷監督の「ヨ-イ、スタ-ト!」の声でテストが始まります。

軍服のズボンとパッチ(股引き)を一気に膝下まで下ろして、ふんどし一丁になると、あとは叫びながら発狂した演技です。

泳いでいると云うか宙をもがくように腕を動かしながら、その場を廻るように歩きまわって、雪溜まりの中へ頭から突っ込んでいく流れです。

3人くらいの助監督さんに助け起こされてすぐに毛布で包まれました。

テストの動きを見ていた森谷監督からは「雪に埋もれたあと、もう一度立ち上がってカメラに向かってかっと眼を見開いてくれ」と指示がありました。 

 テストで踏み荒らした雪面に助監督さんたちが急いで新しい雪をかぶせて目立たないようにしてから、いよいよ本番です。

 準備ができるまでほんの1分程度だったと思いますが、私はその場で寒さに耐えて必死で待っていました。

「ヨーイ、スタ-ト!」

テストと同じように発狂して、その場を廻るように歩いていると、突然、雪に足とられて転倒しNGです。

全身に針を刺されたような痛みがあり、身体は既に悲鳴をあげています。

撮影は時間との勝負で、助監督さんも準備の短縮に必死です。

 本番2回目のテイク。

毛布に包まれているスタ-ト前はなんとか森谷監督の指示に近い動きをやろうと思っているんですが、本番は、あまりの寒さにもう芝居をしている意識などなくて、ただ本能で動いていただけだったと思います。

それに雪溜まりが深すぎて、雪に埋もれた後にもう一度立ち上がることなどとてもできず、顔を上げるのが精一杯でした。

耐えられる限界を超えた寒さの中で、埋もれた雪から顔を上げた私の眼は、見開いたというより完全に狂ってしまったような眼をしていたそうです。

一応OKを貰いましたが、その狂ったような眼にこだわった森谷監督は「原田君、もう一回できないか?」と尋ねてきました。

痛みを感じていた肌の感覚が除々になくなって麻痺しているようです。

身体が限界に近づいているのは分りましたが、より狂った眼異常な顔の表情とを撮りたい監督に応えるために、こちらも命がけで臨んでいます。

歯がガタガタ震えてかみ合わなくて、うまく喋れなかったんですが、

「や・・り・ます」となんとか答えました。

雪面ならしの準備の間、毛布で包んでくれている助監督さんに支えられながら、気力だけでカメラの前に立っていたと思います。 

 

テストから数えて4回目。本番3回目のテイク。

「ヨーイ」の声を聞いたとき、震えがピタっと止まったのを今も鮮明に覚えています。

「スタ-ト!」

ズボンを脱いでふんどし一丁になって、発狂して叫びながら

宙をもがくように歩き廻り、頭から雪の中へ突っ込んで、

もう一度顔を上げて、力尽きてがっくり。

 

10秒程度のカットですが、地獄の寒さの中での本番です。

森谷監督の「OK」の声。

 

精神力だけでなんとかやり抜きました。

雪溜まりに埋もれた私は、何分も放って置かれたように感じて怒っていたんですが、助監督さんにあとで訊いてみると実際は、助けに駆けつけるのに30秒もかかっていなかったそうです。

 助監督さんに掘り起こされて、すぐに毛布で包まれて雪上車まで運ばれます。 

途中「大丈夫か?」と何度も訊かれました。

頭はしっかりしていて意識もはっきりあるんですが、息が深く吸い込めなくて呼吸が浅くなり、心臓が締めつけられるように痛いのです。

「心臓の弱い人は、きっとここで死ぬんだろうな」と自分自身の死について、冷静に考えたのを今も覚えています。

皮膚の感覚は痛さを通り越して麻痺しているような感じでした。

雪上車で酸ヶ湯温泉の旅館に戻って、私はボイラ-室に運ばれました。

すぐに温泉に浸かればいいのにと思われるかもしれませんが、私の身体はすでに軽度の凍傷になっていて、いきなり熱い湯に浸かったりすると皮膚の細胞が壊死してめくれてしまい、重度の皮膚炎になる可能性さえあったようです。

 程良い温かさのあるボイラ-室でゆっくりと温めることが凍傷の初期治療には重要で私はここで1時間以上横になっていました。

幸いなことに皮膚の感覚は暫くして蘇ってきたんで、凍傷がひどくなることはありませんでしたが、身体が衰弱していて、その後の2日間は起き上がることもできませんでした。

映画『八甲田山』の青森ロケはまだ撮影が続いていましたが、私はそのまま旅館で静養していました。

原田君事と映画『八甲田山』 (8)

裸になって死ぬシ-ン撮影の当日です。

 

午前中は撮影台本のト書きにある「落伍は輸送隊から始まっていたが、」のシ-ンで雪の中を朦朧とした意識で歩き、行軍から除々に遅れていく隊員のカットを撮りました。

撮影は続いていましたが私だけ撮影現場を抜けて酸ヶ湯温泉の旅館に戻って午後の裸になって死ぬシ-ンの準備です。

眼の周りが黒ずんで血の気が引いたメ-クを強調するように直してもらい、素人考えで身体中にワセリンを塗っていれば少しでも雪の冷たさが和らぐのではないかと思いメイク係の人にやって貰ってから軍服を着て、スト-ブの前で迎えの雪上車が来るのを待っていました。

私が準備をしている間にも現場では撮影が続いています。

雪の中へ突然倒れる隊員

木の幹に銃剣を突き刺す隊員

雪の吹き溜まりに飛び込んで泳ぎだす隊員

三島君の演じた「雪の中へ座り込みゲラゲラ笑いだす」狂った隊員

などの撮影をしていたそうです。

「用意ができました」と助監督さんが呼びに来たとき、私に気合いを入れるため、そして少しでも私の身体が温まるようにとブランデ-をグラスに注いで差し出してくれたのが嬉しかったです。

現場に着くと今度は森谷監督から熱いコ-ヒ-の差し入れです。

18年間この仕事をやりましたが、後にも先にも撮影中にこんな気を使ってもらったことはありません。

この時だけです。

今まで撮影現場では怒られるのが当たり前の役者人生でしたので、これだけで、今日はもう死んでもいいと思いました。

 撮影するのは2カットです。

森谷監督と相談した通り、最初のカットは防寒外套と軍服の上着を脱いで、スボンはそのまま、上半身が白のシャツだけになるまでを撮ります。

軍服にはボタンがありますが外すのに時間と手間が掛かるんで、最初から軍服のボタンは外しておきました。

吹雪の中という設定の撮影ですが、スタッフは出来るだけ風が弱まるのを待っていました。

厳冬期のロケ撮影ですから自然の風がもちろん吹きつけます。

強風が吹き始めて大荒れになってしまうと、もう撮影を諦めるしかありませんが、巨大扇風機の風なら撮影スタッフがコントロ-ルすることができます。

撮影現場には5メ-トルくらい先に巨大扇風機が置いてあって、ザルに雪を入れて持っている助監督さんがその横に立っていて、撮影現場を一瞬で吹雪状態に変貌させる訳です。

この巨大扇風機の風の直撃が強烈でした。

まだ軍服を着ているにも関わらず、身体の芯まで凍るような寒さです。

テストで動きを確認したあと、最初のカットの本番です。

カメラの前で防寒外套のフ-ドを外して軍帽と耳当てを一緒に飛ばすと剥き出しになった耳がすぐに痛くなってきて脳内にまで冷気が襲ってきます。

必死の形相をしながら外套を脱ぎ棄てて、肩章にある数字の5が鮮やかな第五連隊の上着をマフラ-と一緒に脱いだところで一発OKになりました。

 

 2カット目はいよいよ裸になって狂い死ぬ撮影です。

 

撮影現場に取材に来ていた青森新聞の記者が書いていましたが、あの日の八甲田山中の気温は零下15度以下だったそうです。

地元の山岳会の人が心配して「裸になっての撮影は、せいぜい5分程度にしておかないと本当に危険」と言ってくれていました。

撮影現場の横には、ヒ-タ-のついた雪上車が待機しているんで、最悪その中へ逃げ込むことはできますが、監督のOKが出るまで意地でもそんなことはしたくありません。

森谷監督が「テストは軍服を着けたままでやりましょう」と言われましたが、私としては裸での寒さがどんな感じなのか知りたくて「本番と同じようにやらせてください」とお願いしました。

雪上車に乗り込んでシャツを脱いで上半身裸になりました。

指先が凍えて動かなくなるとズボンを脱ぐこともできなくなりそうだったこともあり、軍手はそのままつけておくことにしました。

撮影準備ができるまでヒ-タ-の温かさに指をかざしながら毛布にくるまって待つんですが、テストが始まれば想像もつかない極寒冷凍地獄です。

でも決めたのは己(おのれ)、突き進むしかない、やるしかないのです。

原田君事と映画『八甲田山』 (7)

とてつもなく寒いのに服を脱いで裸になるなんて不思議な気がしますが、調べてみるとこの異常行動は「矛盾脱衣」という現象で、実際に寒冷地で遭難して凍死した死体の中に裸で見つかる例があるそうです。

体温低下を阻止しようと体内の温度を上げようとする人間の身体に備わった機能によって、体内の温度と外気の体感温度との間に温度差が生じてしまい、まるで暑い場所にいるかのような錯覚に捉われて服を脱いでしまうらしいです。

 私の撮影の日が近づくにつれて、撮影隊の中で極寒で裸になるシ-ンを撮ることが話題になっていたんですが、事故防止のために撮影隊に同行していた地元の山岳会の人だと思うのですが、この話を聞いたらしく、私の処へ来て「どちらの出身ですか?」と訊ねます。

「神戸です」

 「こんな寒さ、神戸では経験したことないでしょう」

「そうですね」

「止めた方がいいんじゃないですか?命の保障はできませんよ」

「本人がいいと言ってるんだからいいんじゃないですか。ほっといてください」

せっかく心配してくださっている方に失礼な物言いをしてしまいましたが、こちらとしても雪中行軍隊でどこに映っているのか判らない役から飛躍できるチャンスなんで必死です。

私は神奈川県の川崎市にある昭和冷蔵という倉庫で人足のアルバイトをした経験があって、そのせいで、裸で狂い死ぬ隊員の役ができる気がしていました。

冷凍倉庫で零下40度の世界は体験済みなんですが、もちろんそのときは上から下まで完全防寒で下着も靴下も二重に履いていました。

しかし今回はふんどし一丁のほぼ全裸です。

粋がってはいても、一応、女房殿に連絡を入れて遺言のひとつも残しておかないと無責任だと思われるかもしれないんで、撮影の前日「ひょっとしたら明日、撮影で死ぬかもしれないんで、治(息子)が大きくなったら、お前の親父はおっちょこちょいで、撮影中に死んだと話してくれ」と電話を入れました。

本当に死んだら家族の悲しみはもちろんですが、映画の制作が中止になることにもなり兼ねない事態です。                

馬鹿が売り物の原田君事としては、そんなことは考えもしませんでした。

 

原田君事と映画『八甲田山』 (6)

シーン80 八甲田―鳴沢   (橋本忍先生の脚本より)

大隊本部の雪濠。

ここは炊事班兼用で大きな平鍋が炭火の上に据えつけられて飯を炊いているが、炭火の熱で周囲の雪が溶けて釜が傾き、炊事係も大苦労だ。

雪濠の上から声。「第四小隊でありますが、飯上げはまだでありますか!」

炊事係A 「そうせっつくな、こっちも苦労しているんだ!」

炊事係B 「それに飯は上がっても、配給は第一小隊からだぞ」

 撮影が始まってから暫くして、このシ-ン80も撮りました。

雪濠の中の積雪を2メ-トル掘っても地面が露出しないので、仕方なく雪面に炭を直接敷いて平鍋で飯を炊いていると、雪が溶けて釜が傾いてくるというカットと、炊事係A・Bのセリフのカットも撮ったんですが、完成した作品を観たときは、残念ながらなくなっていました。

 撮影が始まって何日か経った頃のことです。

旅館で森谷司郎監督に声を掛けられ 

「原田君、君のその短くした頭を活かして、死んでいくカットは、防寒外套のフ-ドを取って雪の中へ飛び込んでいく芝居にしようよ」と言ってくださったので、すぐ調子に乗る私としては「監督、そこまでやらせていただけるなら、裸になってふんどし一丁で雪の中へ飛び込むことにしましょうよ」と三島君が私に言ったことをそっくりそのまま、その場の勢いで申し出てしまいました。

「この寒さの中でそんなことができるのか?」

「やったことはありませんが、いいんじゃないですか」

「軍服を脱いで裸になってたんじゃあ、時間がかかり過ぎるんじゃないか?」

森谷監督は軍服のボタンを外しているとその場面が間延びして緊張感を失うことを心配しているようだったんで、

「最初のカットは脱ぎ始めを撮って、間に他の連中が死ぬところを編集でカットインして、2カット目はズボンだけを残してほとんど脱いでいるところからスタ-トして、ズボンを脱いでふんどし一丁で雪の中へ飛び込む流れでいいんじゃないですか」

と提案してOKは貰いましたが、半端な寒さじゃないことは青森入りして以来、骨身に染みて分かっています。

とりあえず、三島君に「お前の持っていたふんどし、俺に売ってくれ」と頼み込みました。

「そりゃいいけど、どうするんだよ?」                       「なんぼや?」

「じゃあ300円」

「OK! 実はなぁ、お前がこないだ、俺に言うとった裸で狂い死にする隊員って奴を演ってやろうと思うてなぁ」 

それを聞いた三島君は呆気にとられたような顔をしていました。

頭を短く刈ってもらったことで、森谷監督の目にとまり、雪中行軍で歩くくらいしか見せ場がなかった炊事係Bの役柄が広がりました。