原田君事と映画『八甲田山』 (5)
青森歩兵第五連隊は210名の大部隊と云う設定なんで、東京から来た若手の役者だけでなく現地の人々にエキストラとして参加してもらうことになっていました。
雪中行軍隊の後方、特に雪ぞりの輸送隊はほとんどエキストラです。
新聞広告で募集した1月の青森は、仕事がほとんどない時期で、しかも、一生に一度経験できるかどうかという映画のエキストラは人気があって、100人近い応募があったそうです。
最初、現地採用のエキストラが80名以上いたはずなんですが、八甲田のロケ現場は現地の人でも音を上げるような凍てつく寒さになります。
撮影が天気待ちとか青森湾などの眺望待ちになると、立ったまま半日くらいはその場に待機することになるんで、余りのつらさに脱落者が続出することになりました。
「安いギャラでこんな馬鹿らしいことはできない」と思ったのか、数日も経たないうちにエキストラの数は半分に減ってしまいました。
そのため、後半の撮影になってくると隊員の数が足りないんで、使い廻して撮影することになります。
雪中行軍隊の先頭部分にいた隊員が、先頭の撮影が終わると今度は隊列後方に廻って、雪ぞりの輸送隊になったりしていました。
参加者全員が元気で、まだひとりの脱落者も出ていない、最初の頃に撮っていたロングカットが後から考えると貴重になっていた訳です。
脱落者のことまで考えていたとはとても思えませんが、撮影スケジュ-ルを考えていた助監督さんは流石だと思いました。
青森ロケの後半は、役者もスタッフもイライラして、殺気立つことが多くなり、スケジュ-ルや仕事の進め方でよく喧嘩ごしになっていたのを思い出します。
役者は助監督さんに言いたい放題文句を言って、自分の撮影部分が終了すれば帰れますが、助監督さんはそう云う訳にはいきません。
あるチーフ助監督さんは、役者と監督の板挟みなって精神的に参ってしまったようで、撮影途中で東京に送り返されていました。
この作品は制作に3年掛かっているんで本当に大変だったと思います。
私は、碌な芝居もできないくせに、丹波哲郎の看板を背負っているのをいい事に率先して文句を言う方だったんで、今から考えると「悪いことをしたなぁ」と迷惑をお掛けしたことを反省しております。
私の役は、丹波プロの三島君と同じ青森歩兵第五連隊の炊事係Bです。
セリフはシ-ン80の一行だけで、炊事係は連隊の行進中は輸送隊として参加しています。
吹雪の中をひたすら雪ぞりを引っ張る輸送隊の先頭に立って、炊事係Aの三島君と一緒に歩いています。
後続の雪ぞりを引っ張る隊員の中には、後年、俳優やコメンテ-タ-として有名になったシティボ-イズの大竹まことさんがいました。
原田君事と映画『八甲田山』 (4)
1月4日から撮影スタ-ト。
早朝6時には起こされて、準備して7時30分には出発です。
撮影内容でスケジュ-ルは変わりますが、夕方4時頃に酸ヶ湯温泉の旅館に戻って夕食後、夜間撮影がある日は、それから出掛けていくことになります。
昼間の撮影で零下15度以下。
夜間の撮影では20度以下にもなります。
そこに強風が吹きつけると体感温度はもっと下がる訳です。
青森第五連隊の雪中行軍シ-ンは天候と撮影場所を変えながら何度も撮りました。 最初の頃はロングカットの撮影ばかりで、広大な八甲田の雪景色の中に人間の列が小さく動いていくのを撮っています。
凍えるような吹雪の中、どうせどこに映っているのかも判らないんだからとヤケクソな気持ちで歩いています。
しかし役者というのは単純なもんで、雪中行軍隊の近くに撮影カメラが設置されると途端に元気を取り戻して、寒さも忘れて少しでもいい顔で映ってやろうとするもんなんです。
撮影の大半が天候との勝負で、吹雪のシ-ンであれば天候が荒れてくるのをその場でずっと待っていることになります。
立ったまま半日くらい待機ということが結構ありました。
ウロウロ歩き廻って、雪中行軍隊の周囲の雪面に余計な足跡をつけることは絶対できないので、その場で足踏みするくらいがせいぜいです。
寒さに耐えられなくなると「もうギャラなんて要らないから東京へ帰りたい」と何度も思いましたが、前払いで貰ってたんでそれもできません。
軍手は二重にはめていたんですが、あまりの寒さにかじかむというよりは痛くなってしまって、指が曲がらなくなります。
昼食は握り飯と豚汁が多かったんですが、指がかじかんで箸が使えなくても、握り飯なら手の平に置いてかぶりつけるからという配慮がありました。
豚汁も熱々の湧きたてを貰うんですが、15メ-トルくらい離れた食べる場所へ移動したときには、もう冷めています。
飯の楽しみもなく、楽しみと云ったら宿泊先の酸ヶ湯温泉の湯治場で風呂へ浸かることと撮影仲間と一杯やるやることくらいでしょうか。
初めのうちは男同士でワイワイやっているのが楽しかったんですが、やがて話題もなくなりストレスが溜まってくると愚痴をこぼすようになり、仕舞いにはあちこちで喧嘩です。
体力があるうちはまだ平気なんですが、それが段段つらくなってきたとき、寒さに耐え兼ねたのか、役者がひとり東京へ逃げて帰ってしまいました。
撮影現場へ行くと「なんか、誰か逃げて帰っちゃたらしいぞ」と噂になっていたんで知ったのですが、たぶん、東京へ戻って所属事務所で散々怒られたんでしょう。 1週間くらいしたら舞い戻ってきました。
原田君事と映画『八甲田山』 (3)
明治期の男の髪形の件では、演出家の柳永二郎先生に怒られた舞台『湯島の白梅』のことが咄嗟に私の頭をよぎりました。
さむらいプロに入った当初、中丸忠雄さんの付き人をやっていたときに出演した名古屋の御園座での舞台のことです。(私のブログ「原田君事と舞台『湯島の白梅』の中で詳しく書いています)
鏡の前に座った私に、メイキャップ係の方が気を使ってくれて「次の仕事に支障はないですか?」と訊いてくださいましたが「大丈夫、遠慮なくやってください」と答えました。
頭を短く刈ってもらったあと、部屋へ戻って酒を飲んでいると炊事係Aの役をやっている同じ丹波プロの俳優の三島君が「台本に書いてある<奇声を発し、外套や軍服を脱ぎ裸になる者>をやりたいと思ってふんどしを用意してきたんだが、この寒さじゃあ、とてもじゃないが無理だよ。死んでしまうよ」と言ったんです。
私は内心「こいつは偉いなぁ!俺なんか、自分のセリフの処を見ただけで、台本なんか読んでないよ」と思いながら彼の話を聞いていました。
実際、自慢じゃないですが、今までのほとんどの仕事で、台本は自分の配役とセリフを確認するだけで他のペ-ジは読んだことがありません。
映画の流れを理解して現場に入ったことなど一度もなかったと反省をしていますが、手遅れも良いとこですね。
三島君の話を聞いて撮影台本のシ-ン100を見てみると、ト書きの記述はわずかで、隊員役の誰がト書のどの芝居をするのかという具体的なことは何も決まっていないようでした。
シ-ン100 八甲田―鳴沢
雪は赤ではなくそれを越え黒くなっている。
吹雪、地吹雪、積雪ともに真ッ黒だ。
落伍は輸送隊から始まっていたが、残り少ない隊員が、食料や木炭、
円匙を背負ったまま倒れてしまう。
一般隊員も同様だ。
雪の中へ座り込みゲラゲラ笑いだす者、
奇声を発し、外套や軍服を脱ぎ裸になる者、
いきなり乱暴に暴れだし、雪の中を転げ廻り、
その中へ頭を突っ込んで動かなくなってしまう。 (橋本忍先生の脚本より)
原田君事と映画『八甲田山』 (2)
神戸生まれの神戸育ち、こんな大雪を目の前で見たのは初めてでした。
荷物を集合場所の公民館に降ろし、早めの昼食後、他の役者たちと共に雪道歩行に慣れるため雪中行軍遭難記念像まで行きましたが、こんなに凄い雪道を歩いたのは生まれて初めてです。
天気は良かったんですが、それでも深く積もった雪に膝上まで沈みながら歩くのは本当に大変でした。
雪中行軍遭難記念像は、雪の中に仮死状態で立っていた後藤房之助伍長の像で、映画では江藤伍長として描かれ、新克利さんが演じています。
「これは大変な仕事を引き受けた」と青森入り初日にして早くも、この仕事を取ってくれた小林八郎マネ-ジャ-を恨みました。
バスで撮影の本拠地となる青森市の八甲田山中にある酸ヶ湯温泉の旅館へ入って、夜は旅館で出演者の初顔合わせがありました。
俳優とスタッフ併せて170名以上の撮影隊です。
初めて見る顔の中には東野英心さんなどの知っている顔もあって、若い連中同士で一杯飲みながら、合宿に来たような気分で楽しかったです。
東野英心さんはTBSの人気時代劇だった『水戸黄門』の初代水戸光圀(ご老公様=越後のちりめん問屋の隠居光右衛門)役として有名な東野英治郎さんの息子です。
入浴後「歩兵の隊員役で髪の毛の長い者は、頭を短く刈るように」と伝達があり、旅館の1階にメイキャップ係による臨時の床屋が開設されました。
軍帽と耳当て、その上に被るフ-ド付きの防寒外套で頭は何とか隠せるんで、強制ではありませんでしたが「そうだ、俺も坊主頭にしようと」決めて階下へ降りました。この咄嗟の選択が私の人生に大きな変化をもたらしてくれることに繋がりました。
人生とは面白いものですね!
原田君事と映画『八甲田山』 (1)
日露戦争を前にした1902年(明治35年)に起こった日本陸軍青森歩兵第五連隊の八甲田山雪中行軍遭難事件を題材にした映画で、足掛け3年の制作期間をかけて完成した大作です。
映画『八甲田山』の企画は、1974年に公開された松竹と橋本プロの提携作品である映画『砂の器』と同時期に始動していました。
『人間革命』『砂の器』『続・人間革命』と連続で橋本脚本の作品に主演していた縁で、丹波さんと橋本忍さんはつき合いがあり、三国連太郎さんが演じた青森第五連隊の山田少佐の役を当初は打診されていました。
冬の青森県八甲田山周辺をロケ-ション・ハンティングされていた橋本さんから情報を得ていた丹波さんは、その苛酷なまでに厳しい冬の寒さのことを耳にして「雪中行軍に参加する役はやりたくないな」と思ったんでしょう。
山田少佐の役を適当な理由をつけて断って、代わりに弘前三十一連隊長の児島大佐を演じることになりました。
丹波さんが青森のロケに参加したのは1日だけです。
青森市森林博物館(旧青森営林局庁舎)を使って映画の冒頭で描かれている弘前第四旅団本部での会議のシ-ンと旅団長以下の会議出席メンバ-が旅団本部から出てくるシ-ンを撮影しました。
会議が開かれた季節は秋の設定、雪は全くありません。
それ以外は砧の東宝スタジオでのセット撮影です。
君子危うきに近寄らず。
さすがに親分です。
私はもちろん丹波さんの抱き合わせ出演ですが、参加した青森ロケ-ションは厳冬期の1月で、撮影は1ヵ月に及びました。 私が34歳のときです 結婚をして1年半、長男の「治」が生まれて3ヵ月になる1977年1月2日。 女房殿と子供を東京に残して雪中行軍隊兵士に扮する若い役者たちと一緒に夜行列車で上野駅を出発し、翌朝8時に青森駅に到着しました。
駅の外へ出るとすごい雪です。
「なんじゃこれは!」
<元役者 原田君事 今も、しぶとく生きてます>
映画『八甲田山』(橋本プロ・東宝映画・シナノ企画)を観たことがありますか?
明治に起きた日本陸軍の八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした高倉健さん主演の映画で1977年公開の邦画興行成績第一位。
厳冬期の八甲田の雪中行軍で、生還の可能性を見出せずに絶望して「天は・・・天は我々を見放した!」と叫ぶ北大路欣也さんのセリフが印象に残ります。
当時の映画館の観客に、そのシ-ンに負けないくらい強烈な印象を残した場面が、実はもうひとつ他にもあったのですが・・・覚えておられますか?
(橋本忍先生の脚本より)
兵隊のひとりが外套や軍服を脱いで裸になり、乱暴に暴れだして雪の中を転げ廻り、その中へ頭を突っ込んで動かなくなってしまう。
1977年2月12日 毎日新聞夕刊 土曜レポ-トのコ-ナ-
【腰まで埋まる雪の中、錯乱のすえふんどし一つで凍死。
【文字どおり死を覚悟しての演技だった】
1977年3月6日 公明新聞
【俳優残酷物語の決定版!! 凍死寸前、裸で雪の中を駆け回る兵隊役の原田君事】
1977年3月17日 東京スポ-ツ新聞
【零下十五度の中を裸で・・・中略 原田クンは生きながらにして
この世の地獄を見てしまったわけだ。ゴシュウショウサマ。
苦あれば楽あり―きっと、いや絶対この映画ヒット間違いなし、とは周囲の話】
新聞記事にある【裸で雪の中を駆け回る兵隊役の原田君事】というのが私です。
原田君事(原田 くんじ)
1942年(昭和17年) 神戸生まれ 俳優
1967年 松竹大船撮影所俳優部入社→さむらいプロ→丹波プロ→ひかり映画社 ※俳優業は引退
殆どの人は知らないでしょうが、これでも、映画・テレビ・舞台の出演多数。
クレジットない端役も含めたら100本以上です。
さむらいプロに所属した頃、縁あって、大俳優丹波哲郎さんの弟子になり、丹波さんの出演した作品の多くに抱き合わせで出演させてもらいました。